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2022年7月22日 記事掲載

埼北市町村ガイド

埼北よみうり配布エリアの22市町村を順に紹介していく連載コーナー。歴史、文化、地理、産業、観光など、各市町村の特色を掲載いたします。

Vol.16 長瀞町

国の名勝・天然記念物「長瀞」

川の水が深くて静かな場所『瀞』が長く続くことが町名の由来となっている。町の中央を南北に貫くように荒川が流れ、美しい自然の景観が広がる。『地球の窓』と呼ばれ、約7000万年前に地下20~30㎞でできた岩石を地表で観察できる「岩畳」を始め、周辺一帯は「長瀞」として国の名勝・天然記念物に指定されている。

長瀞の大地が生み出した岩石は秩父青石と呼ばれ、関東一帯で古くから石材として用いられてきた。国指定史跡「野上下郷石塔婆」は、南北朝時代に当地にあった仲山城主・阿仁和直家の供養のため建立されたが、高さ約5m、幅1.2mと現存する石塔婆(板碑)としては日本一の大きさを誇り、当時の豊かさをうかがわせる。

明治以降は、ナウマンゾウの化石研究で有名な地質学者のナウマン博士、詩人・作家の宮沢賢治が地質調査のために長瀞を訪れていて、県立自然の博物館には「日本地質学発祥の地」の碑が建立されている。

1911(明治44)年には上武鉄道(現・秩父鉄道)が延長され宝登山駅(現・長瀞駅)が開業。大正時代に起こった行楽ブームで遊船(現・長瀞ライン下り)の営業や、長瀞駅を中心にした旅館や娯楽施設の建設など、長瀞一帯を理想的な遊覧地にする計画が実施され、県を代表する観光地として大いに発展した。

かつては荒川を境として東部が忍領、西部が幕府領に分割され、明治時代になってからは地名に幾多の変遷があった。

43(昭和18)年、野上町と樋口村、白鳥村の一部が合併して新しい野上町が誕生。72(昭和47)年に名称を「長瀞町」と変更し、現在に至っている。

「地球の窓」と呼ばれる岩畳

土地がやせ稲作に不向きだったことから、古くは養蚕業を中心に発展してきた。江戸時代中期に建造され、国指定重要文化財の旧新井家住宅は、板葺屋根などの構造から当時の秩父地域の養蚕農家の特徴をよく表している。

蚕の飼育が年に複数回できるようになり、繭や生糸の大量生産を可能にした蚕の卵を冷蔵する技術には、町内の氷池で切り出される天然氷が大きな役割を果たした。この天然氷は現在、かき氷として観光客に提供され、町の観光産業を支えている。

最近では、町内産新鮮野菜の配送サービス「長瀞町のお土産野菜 Torocolo(トロコロ)」や、町内の庭木にカリンの木が多いことをヒントに生まれた「ながとろ花梨」(花梨ペースト・花梨カレーペースト)など、新たな特産品も生まれている。

農業においては、イチゴやブドウ、ブルーベリーの摘み取り体験などの観光農業が盛んになっている。

新商品「ながとろ花梨」

宝登山神社

秩父三社の一つ宝登山神社は、宝登山を対象とする山岳信仰と密接な関係を有しているとされる。2011年には、世界的に有名なレストラン・ホテルのガイドブックを発行するミシュラン社の訪日観光者に向けた旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で一つ星を獲得した。

宝登山神楽・岩田神楽などの民俗芸能、風布・小坂などに伝わる回り念仏、土地の境界に護符や大きなワラジを設置するお精進(オショウジン)などの民俗行事が数多く残っている。また、豊かな自然環境を生かした、春の桜まつり、夏の船玉まつり、秋の紅葉まつり、冬の七草粥まつり・ロウバイまつりなど四季折々の祭りも盛んに催されている。

町内には、大正期に長瀞を訪れた宮沢賢治や俳人・高浜虚子ら著名人の歌碑や句碑があり、長瀞駅前には渋沢栄一の揮毫による「長瀞は天下の勝地」の碑も建てられている。

県の西北部、秩父山系の関門に位置し、荒川の両岸に細長く開けた町となっている。総面積は30.43㎢で、そのうち約60%が山林で占められている。四方を宝登山・不動山・陣見山・釜伏山といった標高約500mの山々に囲まれ、これらの山を源とする沢がそれぞれ荒川に流入している。

町の全域は、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されている。旧親鼻橋から旧高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域に指定され、なかでも『岩畳』に代表される岩石段丘が広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。

桜の名所・北桜通り

町内は、四季折々の美しい自然に囲まれ、川下りなどの体験型観光も楽しめる自然・文化・歴史にあふれる地域となっている。

水を深くたたえた雄大な流れや渓谷など優れた景観を誇る荒川周辺は、「長瀞」として国の名勝・天然記念物に指定され、「岩畳」などを見物するために多くの観光客が訪れている。

春は、桜のトンネルとして知られる「北桜通り」の約400本の桜並木や町指定天然記念物の「法善寺しだれ桜(樹齢約100年)」、初夏には、岩畳に自生している約3,000本(400株)の藤の花や約1,000㎡の花の里で色とりどりのハナビシソウが咲き誇る。秋の「月の石もみじ公園」では紅葉のライトアップ、冬には宝登山ロウバイ園で3種類約3,000本のロウバイを見ることができ、一年を通して花や自然を楽しめる。

月の石もみじ公園の紅葉

本野上出身の柔術家・福田柳儀斎は講道館の創設者で柔道の父とも呼ばれる嘉納治五郎を指南した。

村田源三郎は、明治中期に村田絣を発案。秩父銘仙の代表的な織物として全国各地で販売され一世を風靡した。

落合芳三郎は、明治中期に眼科医院を開業し卓越した医療と仁術から全国から患者を集め、「野上の眼医者か眼医者の野上か」とまでいわれた。

 

竹あかり(左)と制作風景

町の将来像として、人も社会も自然もすべてが健康ではつらつとしている町「はつらつ長瀞」の実現を掲げ、「誰もがいつまでも暮らし続けられるまち」、「活力を生み出すまち」、「安心して快適に生活できるまち」、「一人ひとりが生きがいを持って活躍できるまち」、「町民と行政との協働によってつくるまち」の5つを軸に、雄大な自然や先人たちが築き上げてきた歴史・文化を次世代に引き継いでいけるよう町民と行政が連携し、まちづくりを進める。

新たな取り組みとして、放置された竹林を整備し、竹材を灯ろうに加工して観光資源に活用する「竹あかりプロジェクト」が注目を集めている。

先駆けとなっていた県立小鹿野高校を視察し、町や観光協会、商工会をはじめとした有志ボランティア「716 MAKERS (ナナイチロクメーカーズ)」が中心となって活動している。紅葉やロウバイのライトアップなど夜の観光に彩りを加え、日帰りメインで宿泊者が少ないという課題解決につなげていく。竹あかりの制作には、地元の小学生や保護者、ボランティアツアーの参加者ら町内外から多くの参加があり、SDGsや環境問題を考える機会にもなっている。

長瀞町のデータ

人口 6,719人(令和4年7月1日現在)
世帯数 2,910(令和4年7月1日現在)
面積 30.43㎢
総生産額 203億100万円(平成30年度)

取材協力:長瀞町

長瀞町地図

Copyright © saihokuyomiuri.

埼北よみうり新聞

2022年7月22日 記事掲載

埼北市町村ガイド

Vol.16 長瀞町

国の名勝・天然記念物「長瀞」

川の水が深くて静かな場所『瀞』が長く続くことが町名の由来となっている。町の中央を南北に貫くように荒川が流れ、美しい自然の景観が広がる。『地球の窓』と呼ばれ、約7000万年前に地下20~30㎞でできた岩石を地表で観察できる「岩畳」を始め、周辺一帯は「長瀞」として国の名勝・天然記念物に指定されている。

長瀞の大地が生み出した岩石は秩父青石と呼ばれ、関東一帯で古くから石材として用いられてきた。国指定史跡「野上下郷石塔婆」は、南北朝時代に当地にあった仲山城主・阿仁和直家の供養のため建立されたが、高さ約5m、幅1.2mと現存する石塔婆(板碑)としては日本一の大きさを誇り、当時の豊かさをうかがわせる。

明治以降は、ナウマンゾウの化石研究で有名な地質学者のナウマン博士、詩人・作家の宮沢賢治が地質調査のために長瀞を訪れていて、県立自然の博物館には「日本地質学発祥の地」の碑が建立されている。

1911(明治44)年には上武鉄道(現・秩父鉄道)が延長され宝登山駅(現・長瀞駅)が開業。大正時代に起こった行楽ブームで遊船(現・長瀞ライン下り)の営業や、長瀞駅を中心にした旅館や娯楽施設の建設など、長瀞一帯を理想的な遊覧地にする計画が実施され、県を代表する観光地として大いに発展した。

かつては荒川を境として東部が忍領、西部が幕府領に分割され、明治時代になってからは地名に幾多の変遷があった。

43(昭和18)年、野上町と樋口村、白鳥村の一部が合併して新しい野上町が誕生。72(昭和47)年に名称を「長瀞町」と変更し、現在に至っている。

「地球の窓」と呼ばれる岩畳

土地がやせ稲作に不向きだったことから、古くは養蚕業を中心に発展してきた。江戸時代中期に建造され、国指定重要文化財の旧新井家住宅は、板葺屋根などの構造から当時の秩父地域の養蚕農家の特徴をよく表している。

蚕の飼育が年に複数回できるようになり、繭や生糸の大量生産を可能にした蚕の卵を冷蔵する技術には、町内の氷池で切り出される天然氷が大きな役割を果たした。この天然氷は現在、かき氷として観光客に提供され、町の観光産業を支えている。

最近では、町内産新鮮野菜の配送サービス「長瀞町のお土産野菜 Torocolo(トロコロ)」や、町内の庭木にカリンの木が多いことをヒントに生まれた「ながとろ花梨」(花梨ペースト・花梨カレーペースト)など、新たな特産品も生まれている。

農業においては、イチゴやブドウ、ブルーベリーの摘み取り体験などの観光農業が盛んになっている。

新商品「ながとろ花梨」

宝登山神社

秩父三社の一つ宝登山神社は、宝登山を対象とする山岳信仰と密接な関係を有しているとされる。2011年には、世界的に有名なレストラン・ホテルのガイドブックを発行するミシュラン社の訪日観光者に向けた旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で一つ星を獲得した。

宝登山神楽・岩田神楽などの民俗芸能、風布・小坂などに伝わる回り念仏、土地の境界に護符や大きなワラジを設置するお精進(オショウジン)などの民俗行事が数多く残っている。また、豊かな自然環境を生かした、春の桜まつり、夏の船玉まつり、秋の紅葉まつり、冬の七草粥まつり・ロウバイまつりなど四季折々の祭りも盛んに催されている。

町内には、大正期に長瀞を訪れた宮沢賢治や俳人・高浜虚子ら著名人の歌碑や句碑があり、長瀞駅前には渋沢栄一の揮毫による「長瀞は天下の勝地」の碑も建てられている。

県の西北部、秩父山系の関門に位置し、荒川の両岸に細長く開けた町となっている。総面積は30.43㎢で、そのうち約60%が山林で占められている。四方を宝登山・不動山・陣見山・釜伏山といった標高約500mの山々に囲まれ、これらの山を源とする沢がそれぞれ荒川に流入している。

町の全域は、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されている。旧親鼻橋から旧高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域に指定され、なかでも『岩畳』に代表される岩石段丘が広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。

桜の名所・北桜通り

町内は、四季折々の美しい自然に囲まれ、川下りなどの体験型観光も楽しめる自然・文化・歴史にあふれる地域となっている。

水を深くたたえた雄大な流れや渓谷など優れた景観を誇る荒川周辺は、「長瀞」として国の名勝・天然記念物に指定され、「岩畳」などを見物するために多くの観光客が訪れている。

春は、桜のトンネルとして知られる「北桜通り」の約400本の桜並木や町指定天然記念物の「法善寺しだれ桜(樹齢約100年)」、初夏には、岩畳に自生している約3,000本(400株)の藤の花や約1,000㎡の花の里で色とりどりのハナビシソウが咲き誇る。秋の「月の石もみじ公園」では紅葉のライトアップ、冬には宝登山ロウバイ園で3種類約3,000本のロウバイを見ることができ、一年を通して花や自然を楽しめる。

月の石もみじ公園の紅葉

本野上出身の柔術家・福田柳儀斎は講道館の創設者で柔道の父とも呼ばれる嘉納治五郎を指南した。

村田源三郎は、明治中期に村田絣を発案。秩父銘仙の代表的な織物として全国各地で販売され一世を風靡した。

落合芳三郎は、明治中期に眼科医院を開業し卓越した医療と仁術から全国から患者を集め、「野上の眼医者か眼医者の野上か」とまでいわれた。

竹あかり(左)と制作風景

町の将来像として、人も社会も自然もすべてが健康ではつらつとしている町「はつらつ長瀞」の実現を掲げ、「誰もがいつまでも暮らし続けられるまち」、「活力を生み出すまち」、「安心して快適に生活できるまち」、「一人ひとりが生きがいを持って活躍できるまち」、「町民と行政との協働によってつくるまち」の5つを軸に、雄大な自然や先人たちが築き上げてきた歴史・文化を次世代に引き継いでいけるよう町民と行政が連携し、まちづくりを進める。

新たな取り組みとして、放置された竹林を整備し、竹材を灯ろうに加工して観光資源に活用する「竹あかりプロジェクト」が注目を集めている。

先駆けとなっていた県立小鹿野高校を視察し、町や観光協会、商工会をはじめとした有志ボランティア「716 MAKERS (ナナイチロクメーカーズ)」が中心となって活動している。紅葉やロウバイのライトアップなど夜の観光に彩りを加え、日帰りメインで宿泊者が少ないという課題解決につなげていく。竹あかりの制作には、地元の小学生や保護者、ボランティアツアーの参加者ら町内外から多くの参加があり、SDGsや環境問題を考える機会にもなっている。

長瀞町のデータ

長瀞町地図
人口 6,719人(令和4年7月1日現在)
世帯数 2,910(令和4年7月1日現在)
面積 30.43㎢
総生産額 203億100万円(平成30年度)

取材協力:長瀞町